2022年9月1日

  • 未分類

№111 考える習慣を大切に 県P新聞9月号から

昔々のことですが、ある教室で一人の女性がとても丁寧にほうれん草を洗っていました。彼女は洗い終ったほうれん草をザルに上げてから、鍋に水を入れ火にかけ、鍋を覗き込んでお湯が沸くのを待っています。やっと水が泡立ち初め彼女はほうれん草を根からお湯に投入します。しばらくして菜箸が必要なのに気づいて慌てます。続いて茹でた青菜は冷たい水につけることを思い出し、慌ててボウルに水を張ります。その頃にはもうほうれん草はクタクタ。
横で見ていた若くてちょっと意地悪な料理の先生(私)は「まず必要な道具を準備して、お湯を沸かしている間にほうれん草を洗うと合理的でしたね」と。
その女性は「お勉強になりました」と素直に頷きました。皆さんに心当たりはありませんか。料理中の頭はフル回転しなければならないのです。
以前も書きましたが、私はなんども小学校を追い出されそうになった劣等生でした。とにかく物事を覚えられないのです。自分が何年生で何組なのか。その結果自分の教室が見つけられなくて学校には早めに着いているのに遅刻するのです。信じられないでしょうが毎日が恐怖でした。
栄養学校には行きましたが、なぜ料理研究家になれたかは謎です。
料理研究家の主な仕事はレシピ作りです。肉ジャガを作りましょう。二人分でジャガイモは何グラム必要か、他にどんな材料を加えるか。調味料は何が必要なのか。切り方はどうする。いちいち考えてそれを数字と文章にしてやっと出来上がり。一つのレシピを作るのに一晩かかることも珍しくありませんでした。怠け者の私がなぜ途中で投げ出さなかったのか。試してみて考える。なぜか苦しいはずの作業が私には楽しかったのです。向いていると思いました。
掛け算、割り算、方程式、聖徳太子はいつ生まれたのか。学校では覚えることばかり。記憶することが苦手な私にとって苦痛の連続でした。もしかして覚えられない分考える習慣が身についていたのかもしれません。きっと学校で考える大切さを学んでいたのです。やはり学校はありがたい。
生きていれば100歳を超える父の旧制高校卒業アルバムの寄せ書きに
去る/夢と希望を残して/善悪は知らず/ただ考えるということを得て/友よ/と。考えるということ忘れないようにしたいですね。